うなぎの魅力はその豊富なビタミン群!

◆DHA
うなぎ100gに対して約1350mg。
(1日の理想摂取量は、500〜1000mg)
◆EPA
うなぎ100gに対して約750mg。
◆ビタミンA
うなぎ100gに対して5000IUという成人の1日に必要な摂取量を持っています。
◆ビタミンB1
うなぎ100gで成人の1日に必要な摂取量を持っています。
◆ビタミンB2
うなぎ100gで、成人の1日に必要な摂取量の約半分を補えます
◆ビタミンE
うなぎ100gに1日に必要な量の約半分を補えます

うなぎの研究

浜名湖は、鰻養殖の発祥の地として有名です。 そして誰もが、鰻には、『天然鰻』と『養殖鰻』があることは知っています。 しかし、鰻は雌の親鰻から卵を取りそれに雄の親鰻の精子をかけ受精させて育てる完全養殖ではなく、 シラスを(稚魚)獲って育てる養殖です。 ですから、今でも日本鰻の親が産卵のため川を下り海に出てからシラスが川に戻って来るまでの、 産卵、誕生、シラスに成るまでの成長の場所、時期、餌などが、完全に解明されていないのです。
(サケは川で生まれ海で育ちます。反対に鰻は海で生まれ川で育ちます。)

うなぎは、幼魚のうちはすべて雄で、水質、土壌、餌、生息密度などの環境によって性転換し雌になります。 しかし、鰻の発生は、大昔から長い歳月、雄雌の生殖器が不明であった為、 全く滑稽としか言いようが無いことが、世界中で広く信じられていました。

西洋
アリストテレス(ギリシャの自然科学者、哲学者、現在の生物学の基礎を築いた偉人)は、 鰻は普通の動物のように交尾し産卵するのではなく、泥の中より発生すると言う『自然発生説』を 自分の編纂した動物分類学に提唱。そして鰻の研究を放棄してしまった。
その後の書物にも鰻の誕生は、次のように書かれ信じられていた。
水棲の子虫が化身。
ヘビ類がウナギ類を世界にもたらした。
親鰻の粘液が泥の中で化成した。
牝馬の毛が水中に落ち変化した。
霧から化成した。

東洋
本草和名(1018年版)・・・
水草や湿地に生えるつる草が変化し、或いは人の髪の毛が変化した。

日東魚譜(1716~1735年)・・・
鰻は雄ばかりで雌がいないから気が化して発生した。

醒睡笑(1623年)・・・
他色々の書に、長く伝えられて来た事・・・
すずめ海中に入って蛤となり、山芋化して鰻となる。

と言うように鰻の発生は謎の物でした。

鰻の雄雌の発見

1777年・・・
カーロ・モンティーニが(イタリアの学者)雌鰻の卵巣を発見。 鰻の消化管の左右にある、脂肪層と考えられていた物が卵巣であることを証明した。

1874年・・・
シールスキーが(ドイツの学者)雄鰻の精巣を発見。 雄の生殖器は非常に目に付きにくいところであったので発見が非常に遅れた。 そこで始めて、鰻には雄と雌がいると認められた。

明治20年・・・
日本では鰻の腹から5~6cmの胎児が発見されたと言う珍発見があったがすぐ否定された。(鰻の寄生虫がいたと思われる。私が今までさばいた鰻のなかには、何匹かに寄生虫と思われる物がいた。)

▲ ページトップへ

ヨーロッパうなぎ(アンギラ・アンギラ)

おもに稚魚がフランスから輸入されるから、うなぎ業界では『フランス』と呼ばれている。

外見は日本うなぎと比べると頭、目が大きく、体長は短くて太く、ずんぐりむっくりで可愛い。 骨は三角で体がよく曲がるため、水面をへびのように頭をもたげて泳ぐこともできる。
(この泳ぎを見た時にはビックリ、数も多かったのでこわかった)

味は、日本うなぎと比べると油が強く、たんぱくで柔らかい。
今、日本では中国から大量輸入されスーパーやファースト店などで販売されている。
(日本で消費されている80%)

▲ ページトップへ

ヨーロッパ鰻の産卵場

仔魚(レプトケファレス)の発見
1896年、グラシーとカランドゥルシオの両氏(イタリアの動物学者)が、 メンナ海峡で柳の葉のような体系をした仔魚を採集した。 飼育観察すると、次第に筒状に変化し、体色素も発生してヨーロッパ鰻の仔魚であることを実証しました。

これが『鰻のレプトケファルス』(日本近海の各地では、春から秋に多数漁獲され、 シラウオノオバ、タチクラゲなどと呼ばれ、その形は柳の葉のようで、無色透明の小魚です。 鰻の属す無足類のアナゴ、ハモ、ウツボ、ウミヘビ等もレプトケファルスの時代をすごす。) の発見で、この事実が、鰻の産卵場を発見の発端になった。

▲ ページトップへ

アンギラ種等の産卵場発見に一生を賭けた人

1904年・・・
ヨハネス・シュミット(デンマークの学者)が、海洋船トール号でタラの稚魚の調査中 アイルランドに近いファレス島西部で、75mmの鰻の仔魚レプトケファレスを採集した。
春から夏に、大西洋ヘブリデス諸島とスペインの間で鰻のレプトケファルスを多数採集。 よって、それまでの鰻の産卵場は地中海と言う説に疑問を持った。
1908~10年・・・
シュミット博士は40回にも及ぶ調査を地中海でし、その結果地中海では幼若な仔魚は 全く採集できず、冬期イタリア西方海域で大きく成長したレプトケファレスが多数採集された。 そしてそれより東方行くに従って獲れなくなる。 よって産卵場は大西洋あり、仔魚はジブラルタル海峡を通って地中海に入る。 そう考え、シュミット博士は、地中海産卵説を否定した。
第一次世界大戦の為、鰻の研究を中断。
1920~22年・・・
ダーナ号で8回の北太平洋を調査。 そして1922年6月14日大西洋産鰻の産卵場を発見。
北緯22°~30°西経48°~65°その中心は北緯28°付近で、 (セントトーマス島の北東、バーミューダ島の南東のサルガッソ海峡) 10mm未満の乳化まもない仔魚をこの中心部海域で採集した。 そしてそこを中心の、周囲にの海域で離れるに従ってレプトケファレスが 大型になり分散して採集されたことから産卵場を決定しました。

同時に、アメリカ鰻の産卵場はバーミューダ近海であることも証明し、 東部インド洋鰻の産卵場も明らかにした。

1925年・・・インド洋産鰻、太平洋産の分布を研究
1926年・・・オーストラリア、ニュージーランド、タヒチに行く。
1927年・・・タヒチおよびニュージーランド産鰻の分類と分布を発表。
1928年・・・ダーナ2号でシュミット博士はコペンハーゲンから、赤道に沿って、地球一周の調査旅行に出発。
1928年10月~12月・・・南太平洋マーケサス島~ニューカレドニア海域を調査。
1929年1月~3月・・・・・・ニュージーランド~オーストラリアを調査。
4月~8月・・・・・・・・・・・・・東部インド~マレーを調査。
7月・・・・・・・・・・・・・・・・・・ニューギニアを調査。
9月~11月・・・・・・・・・・・東部インド洋を調査。
12月~1930年1月・・・・西部インド洋を調査

65,000海里661地点でレプトケファルスの調査して、1930年6月30日帰港した。 その結果インド洋産鰻の産卵場を発見。 その他インドネシア、スマトラ島西側メンタワン海溝が4種類の太平洋産鰻の産卵場で ある事も証明した。
しかし、シュミット博士は1932年日本うなぎの産卵場を発見する事無く病で亡くなってしまった。

▲ ページトップへ

日本のうなぎの分布

世界に生息する鰻は16種、亜種3種の19種。 大西洋に2種、インド洋に4種、太平洋に11種、インド洋と太平洋の両方に分布する2種。 日本には、日本うなぎ(Angill Japonica)と、オオウナギ又は、 カニクイ(Anguill marmorata)とよばれる二種類のうなぎが生息しています。

日本うなぎの分布の北限は、太平洋側は北海道の襟裳岬の南、幌別川、日本海側が石狩川。 分布量は太平洋側に多く、利根川以南が特に多い。 日本海側は能登半島以南に多いが、太平洋側に比べてはるかに少なく1割にも満たない。 東シナ海に面した九州地区は日本海よりも多い。
ということは、緯度が高くなるに従って減少し、太平洋日本海流の流れる地域に多い事がわかる。 アジア大陸での北限は、朝鮮半島の朝鮮海峡から、西海岸、中国の渤海に面した地域で、 中国大陸からベトナムのトンキン湾まで分布し、シナ海、太平洋では海南島、台湾、沖縄諸島、 西南諸島、フィリピン北部、小笠原諸島、八丈島、三宅島に分布しています。
よって、分布の南限はベトナム、ハノイ付近、東限は小笠原諸島、西限は黄河、 揚子江の上流、中国大陸中央部四川省の山奥です。

オオウナギ(カニクイ)は最も広く分布している鰻で、 日本では利根川が北限で日本海流の影響を受けている地方に分布している。 そして主な生息地では天然記念物に指定され保護されている。
【主な生息地】
・静岡県伊東市浄ヶ池(大正11年天然記念物指定)
・長崎県西彼杵郡野母崎町樺島(大正12年天然記念物指定)
・徳島県海部郡海部町川西(大正12年天然記念物指定)

その他、和歌山県西牟婁郡北富田、南富田。千葉県館山佐野川、利根川。
そしてイッシー(恐竜でわなく大鰻と言う説もある。)で有名な池田湖。
静岡県の河川で漁獲されている。

また、もう一つの北限は済州島,西限と南限は中央アフリカのナタール、 東限は小笠原、ハワイ、ポリネシアのマーケサス島で、北季節風海流、太平洋赤道海流、 インド洋赤道海流、太平洋赤道反流、インド洋赤道反流の沿岸とその影響を受ける地域 に分布している。

▲ ページトップへ

日本うなぎ(アンギラ ・ジャポニカ)の産卵場

シュミット博士は、日本うなぎの産卵場は大西洋と同じような環境の フィリピン沖の海講で産卵すると考え、台湾周辺、東シナ海を調査し、 さらに日本近海の調査も希望したが、軍事的なことで日本側の反対と荒れた 天候の為に実施できなかった。 それでこの海域でレプトケファレスを採集できず、産卵場は発見できなかった。
日本うなぎ産卵場の推定の歴史
ニューギニア東北部海域
太平洋の中の高温高塩の中層が接近する南方海域
黒潮の海域で東は小笠原諸島を境界とする海域(一ヶ所でなく著しい深海でもない)
フィリピン海溝、又はセレベス海
東限を小笠原諸島、西限を琉球列島に囲まれた海域(薩南海域を有力)
西限を琉球列島、東限を小笠原諸島に囲まれた海域とし、さらに琉球海溝を含め、北および南大東島、ラサ島を結んで南下し、北緯20°を南限とする長だ円形の海域。と変わり、その後
沖縄の南、日本海溝付近の深海とされてきたが、最近の調査でこの説も否定された。
東京大学海洋研究所の塚本教授たちが、白鳳丸で数回行った最新の航海調査によれば、 日本うなぎの産卵場は、日本海溝よりずっと南東のマリアナ海溝の海山のひとつと推定。 (東経134°の北赤道海流上で、水深300~500mの辺り)とまで限定されているので、 産卵場の発見は最終段階に入っており時間の問題となっている。

▲ ページトップへ

日本うなぎの今後が心配

当店では創業以来、日本うなぎ(ジャポニカ種)を使ってお客様に召し上がって いただいていますが、日本の養殖業界のジャポニカ種のシラス(稚魚)不足から、 1968年からヨーロッパからアンギラ種(通称フランス)を大量に輸入、 1971年には10カ国から5~6種を輸入。この鰻が成長し池から逃げだし、 下関市吉見川、大分県大国川、高知県、愛知県の川などで見つかりました。 (今は日本では外国産の鰻養殖は下火に成りました)

今まで日本うなぎの種の純血が守られてきましたが、今後日本各地で世界各国の鰻が、 また日本鰻との混血種鰻が漁獲されるのではないかと心配しています。

今、中国でアンギラ種の養殖が盛んに行われています。 (大西洋で生まれ、ヨーロッパで漁獲され、中国で育ち加工し、中国産鰻蒲焼として輸入。 日本で消費されている鰻の実に80%がアンギラ種) 中国と日本は海でつながり、(うなぎはナイアガラの滝を登るぐらいだから逃げます) その海で鰻は産卵し、稚魚には国境がないので日本、台湾、中国,朝鮮半島に遡上していく。

▲ ページトップへ

うなぎの七不思議

自然界でうなぎの卵、産卵を見た人いない。(産卵場がわからない)
人工ふ化は成功しているが、成魚まで育たない。(仔魚の餌がわからない)
親うなぎは南の産卵場までどんなメカニズムで行くのか、又仔魚はどんなメカニズムで河口に来るのか。
うなぎの生命力。(寿命50年以上。体調35cmのうなぎが絶食で1年10ヶ月生きた)
うなぎは魚なのに鱗が無い。(実は鱗はあるが皮下に埋没している)
うなぎ登りの溯河と河力。(ナイアガラの滝どう遡上するのか)
食べれば不老強壮効果に特に優れたバランス栄養食

▲ ページトップへ

うなぎの成長の旅

海流まかせでプカプカ1年の長旅・・・・・

塚本教授(東京大学海洋研究所 日本うなぎの研究の代一任者)が推定している 日本うなぎの産卵場マリアナ海溝の海山の水深300~500mの辺りは、水温が16~17℃、 高濃度塩分量35%以上の層で、うなぎが産卵するのに必要とする条件を満たしている。

うなぎは約760万個の卵を産卵する。卵は浮流卵で、300~500mの中層でふ化し、 成長するにしたがって海面の表層近くに上昇いく。 ふ化した仔魚(レプトケファレス)はその形態は柳葉状で、自分で泳ぐ力はない。 そのため海流に乗って海流まかせの旅をする。

そして約1年がかりの長旅の末沿岸に接近すると、シラス(色は透明、成魚の小型、体長5cm)に 変態して遡河耐えられるように筋肉、骨格が発達していく。遡河が最も盛んな時期は2~3月頃です。

▲ ページトップへ

うなぎの遡上と生活

うなぎの仔魚シラスは夜、満ち潮に乗って河をのぼり始めると、いかなる障害も乗り越えて、ひたすら前進を続ける。 中国揚子江に遡上したうなぎは、河口から上流四川省まで2,000kmもさかのぼる。 また、アメリカ、ミシシッピー川をのぼったうなぎは、どんどん北上し、 ナイアガラの滝の大瀑布をのぼりつめ、エリー湖にまで行くと言うから驚きというしかない。

「うなぎのぼり」(急速に出世するたとえ、物価や温度が急激に上がる事)と言う形容は 他のものを圧倒する勢いを感じる言葉。

うなぎの生活(縄張り)
うなぎは湖沼、潟、池などに達すると、自分の生活の維持、保証のために縄張りを作り、 夜間、小魚、エビ、昆虫、カエルなどの餌を求めて活動します。 縄張りは何千キロもの旅をしてきたのに範囲は60~140mと狭い。 その縄張りの広さは、餌の量の多少で決まる。
そして水温15℃を下回ると活動が鈍くなり、食欲も減退する。 10℃を下回ると餌を取らなくなり、沼などの底に潜って、活動を停止する。

▲ ページトップへ

うなぎのお産の旅

うなぎは3~8年の歳月をかけて成熟した親うなぎに成長すると、 体色が蒼黒色、側面は弱い黄金色、腹部は薄紅色の婚姻色に帯びてきて、 9~10月下旬に川から海に下り、遠い南の産卵場への長い旅にでます。 この海に下り始めた親うなぎは、下りうなぎと呼ばれ絶食に入り、決して釣ることはできない (網や梁では採れる)と云われています。
そして産卵場を目指して1日13~70km、好条件では100km以上も進む。
産卵場に到着し、生殖活動を終えた雄、雌の親うなぎはまもなく寿命が終わると云われています。

▲ ページトップへ

うなぎの語源

『古代ムナキ』と言う呼び方から始まって『ムナギ』→『ウナキ』→『ウナギ』と転じた。

名称 出典(年代)
武奈伎、牟奈伎 万葉集(717-785)
牟奈支 新撰字鏡(900)
牟奈岐 本草和名(918)
無奈木 和名類聚抄(931-938)
ウナギ 色葉字類抄(1140-1180)
ムナギ、ウナギ 類聚名義抄(1241)
ウナキ 料理物語(1635)
風鰻、ウナギ、ホシウナギ 和爾雅(1694)
宇奈岐、無奈木、宇奈木 本朝食鑑(1697)

また、鵜がうなぎを捕らえて食べようとして、うがなんぎをした→ウナギと言う説 もある。

関東、日本全体、学問上"うなぎ"と称しているが、関西では、マムシ、マムシウナギと言う。 鰻丼も関西ではマムシ丼と言う。これは蒲焼きをご飯とご飯の間で蒸すのでマムシという。 または、うなぎがまむしと同じくらい精力がつくからだとも言われている。

▲ ページトップへ

蒲焼の語源

うなぎと言えば、蒲焼きが頭に浮かぶほど日本人にとって馴染み深い料理法であり食べ物です。
この「蒲焼」と言う料理法の起源はいろいな説があります。
鰻を焼くと、かんばしい香りがする。「かんばしい焼」→「蒲焼」。
鰻を1匹口から、又は筒切りにし、竹串を骨にそって刺して塩焼きにした。
その形が蒲の穂に似ていたので 「がまやき」→「蒲焼」。
鰻を焼いた色が樺色、樺皮に似ているから 「樺焼」→「蒲焼」。
「蒲鉾」→「蒲焼」。

▲ ページトップへ

まむし・まぶしの語源

「まむし」鰻をご飯の「間」にはさんで「蒸し」て食べる→「まむし」
「まぶし」鰻をご飯で「間ぶし」て食べる→「まぶし」
大阪では一般に鰻飯(まんめし)と読んでいた→「まむし」「まぶし」
※ 3.の説が現代では一番の有力説に成っている。

▲ ページトップへ

うなぎの諺(ことわざ)

鰻の木登り
⇒ あり得ないこと。

鰻上り
⇒ 急速に立身出世すること。 物価が高騰すること。 温度がどんどん上がること。

鰻の寝床
⇒ 間口が狭く奥行が長い部屋や建物。(江戸時代間口が広いほど課税された為、今も残る古い建物に多い)

鰻は滑っても一世、ハゼは飛んでも一代
⇒ すべて世の中のことはどんなにあがいても与えられた天職以上の事はできない。

鰻に梅干し、 鰻に生梅
⇒ 食い合わせが悪い事。合わないたとえ。

鰻の巣のよう(山梨県)
⇒ 長いこと。

鰻の頭の水を飲むよう
⇒ 死に瀕してなかなか死なないこと。

鰻の水を飲むよう
⇒ 同上

鰻に荷鞍
⇒ ぬらりくらりして始末に負えず不得要領のたとえ。とりとめのないことをいう。

鰻の片登り(秋田県館角地方)
⇒ 下を知らず、ただひたすら上ること。

山の芋鰻となる。

山の芋鰻とならず。

鰻の板場首をふる。

おいでた鰻どぜう汁。

ありが鯛ならミミズが鰻。

鰻はかれば骨まで動く。

鰻は夏痩せの薬。

針鰻にえびす。(土佐の方言)

As slippery as aneel (英)
⇒ 鰻のようにぬらりくらりとする。

To hold the eel of science by the tail (英)
⇒ 暗中模索だったものが少し目鼻がついてきたこと。

To get used to it as a skinned eel (英)
⇒ 初めは不愉快でも,じきに馴れる。皮をひんむかれても平気になる。

To skin an eel by the tail (英)
⇒ 鰻の尾っぽほうから皮をはぐ。ことの本末を誤ること。

Il y anguille sous roche (仏)
⇒ 岩ノ下に鰻がいるということで、深いたくらみ。陰謀がある意味。

C' est e' anguille de Melun;il cire devant (a vant) qu' onl' ecorche (仏)
⇒ ムランの鰻は皮をひんむかれる前に泣き叫ぶということで、理由がないのにおそれること。

▲ ページトップへ

うなぎ料理の歴史

鰻は万葉集の選歌、大伴家持が詠んだ歌 「石麻呂に吾もの申す夏痩せに吉しと云ふものぞ武無伎とり召せ」 とあるように、万葉の昔から食べられていた。 そして鰻は強い生命力で海辺から川、湖、沼、山奥の池にもいるから、 各地で食べられていました。

しかし、鰻は油が強くしつこい為下等魚でおかずではなく薬、栄養食として食べられていました。 古くから鰻が取れたと有名なのが、山城(京都)宇治川沿いで、 鰻の丸焼きを『宇治丸』、鰻でごぼうを巻き焼いたもの『八幡巻き』は、名が現すように この地方の料理です。
そしてもう一つの地方が、出雲(島根)宍道湖と中海で『出雲うなぎ』と言われ腹から 割き地焼きしていた。この鰻と調理法が関西に持ち込まれ、関西流地焼きに発展していく。

そして江戸には寛永の頃、鰻料理が伝わったが江戸の中頃まで、関東では醤油が作られず、 上方からの高価な下り醤油(薄口)では発展しなかった。 しかし、元禄(1688~1708)の頃、銚子で大豆に小麦を入れ濃口醤油が作られ、 醤油と味醂とで蒲焼きのたれが作られた正徳(1711)の頃から、 蒲焼きは江戸で人気の食べ物となっり、店先で蒲焼きを焼く蒲焼屋、大蒲焼を焼く店も現れ、 「ウナギといえば江戸前」といわれるほどになる。

うなぎ料理は関西から江戸に伝わった為、この時代までは腹から割いていたが、 寛政(1789~1800)の頃には人口の半分を武士がしめる江戸では、 「切腹」につながる腹割きを嫌い、背から割き蒸すようになると、 関東風大蒲焼は人気を集めた食べ物になっていく。

▲ ページトップへ

うな丼・まむしの始まり

天明(1781~1789)の初めに、上野山下仏店の大和屋で蒲焼を販売していた頃は、 お客の方が飯を持っていった云う。

宮川政運「俗事百工起源(1885)」によると、現在のような、 うな丼を食べ始めたのは江戸末期の文化(1804~1818)の頃、 堺町で芝居の興行主に金を貸す商売をしていた大久保今助が元祖。 今助は鰻が大好物で芝居小屋に毎日取り寄せて食べていた。 当時は糠を温めて保温していたが、糠を炊き立てご飯にかえ、丼に盛る工夫をしたら、 蒲焼きが冷めずご飯もとても美味しかった。

これが『うな丼』の始まりで、今助が当時有名人でしたので、 この『うな丼』が大流行し広く一般に賞味され現代に至っています。

青葱堂冬圃「真佐喜のかつら(1857)」には、 鰻めしを始めたのは四谷伝馬町三河屋に勤めていた男が、ふきや町の裏長屋で売り始めた。 丼のご飯の間に鰻を挟んだもので64文で売られ大繁盛した為、他店も皆まねをした。 また、別の本には天明の頃、浜町河岸 大黒屋が始めたとも云う。

関西でも、江戸と同じように鰻もご飯も温かく美味しい、 まむし・まぶしがたべられるようになった。 運河を使った交通、運送が盛んな大阪では、川舟の船着き場で駅弁として 川で獲った鰻を地焼き蒲焼きにしご飯にはさんで、 冷めにくく美味しく食べられるように工夫した。

▲ ページトップへ

うなぎは一品勝負

うなぎは誠にいさぎよく、正々堂々一品で勝負する。
その自信をささえるのは類いまれなる栄養価。
A、B1、B2、D、Eなどの豊富なビタミン群。
脳のはたらきにさようする今注目のDHA、EPAなどの魚油成分。
良質たんぱく質、エネルギー。
実力は味と香りに発揮される。
うなぎ独特の香ばしい風味が、タレのしみこんだほかほかごはん、
ぴりときいた山椒の香り、思わず生唾のみこむ絶妙な味わいを醸し出す。
まさに向かうところ適なし。極上の一品。うなぎ。

▲ ページトップへ

うなぎにも鱗がある

うなぎは皮膚が滑らかでヌルヌルした粘膜で覆われていて、鱗が小さく、 普通の魚のような形に並んでいない為、多くの人たちはうなぎには鱗が無いとおもっています。
しかし、うなぎは皮膚の下の真皮全体に鱗をもっています。
うなぎの皮膚には発達した粘膜を出す細胞があります。 これを刃物で削ぎとるとゴマ状の鱗が並んでいます。 (皮に熱湯をかけるときれいに取る事が出来ます)
鱗は体長14~17cmに成長すると、肛門後方から側線に沿って発生し、 体全体に発生する最後が尾と腹で、その頃には、体長も21cm以上に成長している。(誕生から2~3年) うなぎの年齢は鱗の成長輪の数に1~2を加えた年齢と推定します。(鱗の成長輪年齢での算出法) うなぎの粘膜は、皮膚呼吸に役立ち細菌の進入を防ぎます。
また、この粘液は肺炎の特効薬とされているそうです。

▲ ページトップへ